神道夢想流杖道とは

流祖夢想権之助

神道夢想流流祖・夢想権之助勝吉
神道夢想流流祖・夢想権之助勝吉
神道夢想流は、夢想権之助勝吉によって、今から約400年前に創始された流儀である。夢想権之助は、吉川栄治の小説『宮本武蔵』にも登場し、試合には敗れるが、その後も武蔵を慕って旅をする好漢の武者として描かれている。『二天記』などいくつかの資料にも記されており実在の人物といわれている。さらに棒術(杖術)の名手であったことは間違いないようである。神道流の奥義を極め、鹿島神流「一の太刀」の極意も授かった。数多くの試合をし、一度も敗れたことは無かったが、諸説ある宮本武蔵との試合についても、極意の十字留めにかかり敗れた後、艱難辛苦の修行に専念し、筑前宝満山に籠った。宝満菩薩に祈願参籠し、満願の夜、夢の中に現れた神童から「丸木をもって水月を知れ」というご神託を得て、それが神道夢想流杖道(術)の始まりになったといわれている。そして武蔵と再び対戦し、ついに十字留めを破ったとされている。
その後の人生は、自身が編み出した棒術(杖術)によって黒田藩に召し抱えられ、その流儀は藩外不出の武術として伝えられていった。

突かば槍、払えば薙刀、持たば太刀

神道夢想流における「杖」とは、長さ4尺2寸1分、太さは直径8分の丸木の棒をさす。この規格は時代や修行者の体格などによって一定したものではなかったが、現在ではこれを定寸として統一されている。神道夢想流の特徴は、この杖を千変万化に操り、あらゆる敵に必勝をおさめる技と稽古体系を持つところで、「突かば槍、払えば薙刀、持たば太刀、杖はかくにも外れざりけり」と伝書にも記されている。長さが両手の幅に収まるため、左右両技を等しく使うことができ、さらに手幅も自在であることから、相手に間を読まれることなく、多様な技を繰り出すことができる。またその一撃は必殺の威力を持つことから、昔の剣術家に最も恐れられた武術でもあった。

変遷と発展

当初流名は「神道夢想流」と称していたが、享保年間に至り、原田兵蔵信貞のときに「新富夢想流」と改称している。その後、第7代永富幸四郎の時(享保2年~安永元年)には門弟三百名を超えたが、永富の死後は春吉師役系と地行師役系の二系に分かれている。この頃から「神道夢想流」という流名も現れている。

幕末の黒船来航以来、各藩で武術が奨励されるようになり、黒田藩でも平野吉三能栄の時に杖術の隆盛をきわめ、一千名を超える弟子を育てている。この能栄の次男が幕末勤王の志士として名高い平野次郎國臣である。國臣は、杖は目録まで進んでいたとされる。文久2年、生野の義挙に加わったが、これに失敗し投獄された。そして禁門の変が勃発した際に、京都所司代の命により、同獄33名とともに獄舎内で新選組に処刑されている。享年37歳であった。

明治になり、神道夢想流をはじめとする諸流武術が一時衰退の時期を辿るが、明治35年には吉村半次郎らを中心として、神道夢想流の稽古会が開催されるなど、復興の動きも見られた。その頃に春吉系と地行系の合同が図られたとされている。当時の免許者の中で道場を構えて門弟を育成したものの中に白石範次郎がいた。白石は、平野能栄、佐田亭助、吉村範次郎らの教えを受け、免許皆伝まで進んでいる。白石は、高山喜六、清水隆次、乙藤市蔵、乙藤春男ら神道夢想流杖道の普及発展に貢献した多くの免許者を育成し、昭和2年に81歳の天寿を全うした。
また、白石とは別に東京での普及に尽力をした内田良五郎について述べたい。内田は、天才的な技量の持ち主で、剣術、槍術、馬術、砲術など武道全般に優れた能力を持っていた。特に神道夢想流杖、一角流捕手については平野能栄の教えを受け、免許皆伝であった。内田は、西南の役後に上京し、海軍士官などに杖を教授するようになった。その後多くの門人を抱えるようになり、その中には中山博道もいた。内田は、杖術普及のための工夫としてステッキ術(内田流短杖術)を創始している。

白石範次郎の没後、一旦道場は消滅するが、弟子達の努力によって昭和4年に「福岡道場」が創設された。高山喜六を師範、清水隆次を副師範、乙藤市蔵ら免許者を教師として杖道の普及指導が始まったのである。翌5年には清水隆次が上京し、東京での普及を開始した。各所での演武や指導内容が高く評価され、講道館や警視庁にも採用されている。昭和13年には高山が急逝したことで乙藤市蔵が福岡道場の師範となり、東京は清水、福岡は乙藤という流れができた。
特に東京では団体指導に適した基本十二本が考案されたり、剣道との関わりから太刀が変更されたりしており、古流を維持する福岡との違いが明確になっている。確かに形の細部に違いは見られるが、技術の本質に違いはなく、学ぶものの理解と技量の問題としたい。

塩川寶祥先生と神道夢想流杖道

塩川杯日本古武道大会における杖道競技
塩川杯日本古武道大会における杖道競技
神道夢想流の組織的拡大は、清水隆次を中心に玄洋社の頭山満らの後援を得て昭和15年の「大日本杖道会」の発足に始まる。
塩川先生は、大阪で初めて中嶋浅吉先生より杖道を学び、その後東京では清水先生から、福岡では乙藤先生からそれぞれに直接指導を受けた。「大日本杖道会」は戦後「日本杖道連盟」「全日本杖道連盟」と発展していくが、さらなる普及を目指し「全日本剣道連盟」に参加することになった。塩川先生も全剣連に所属し、杖道の修行に努めたが事情により脱退し、「全日本杖道連盟」は解散。その後先生は、新たに岸信介を会長とする「全日本杖道連盟」を設立した。この組織にも全国から大勢の会員が参加し、毎年全国大会を開催している。

現在、神道夢想流杖道は、全日本杖道連盟、全日本剣道連盟を始め、多くの組織団体で指導普及がなされ、海外においても多くの愛好者によって修行される日本を代表する武術流派としてその地位を確立している。


平年24年8月26日、岩目地、松原両師範立ち会いの元、下関本部道場において、塩川寶祥照成先生から、福島県の岡崎寛人師範に神道夢想流杖道塩川派第2代宗家の継承が允可された。

塩川寶祥著「真伝 神道夢想流杖道」より