警視庁抜刀隊 – 無外流居合兵道 頌寶塾

「逍遊録」

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警視庁抜刀隊

現代に「剣術」「居合道」「剣道」などが継承されているのは、「警視庁抜刀隊」の死闘と活躍が無ければ…有り得ないと言っても過言では無いと思います。

「撃剣興行」が行われていた頃、各地で「不平士族」による反乱が起きていました。最新式の鉄砲で武装していた新政府軍は、圧倒的な火力にて短期間でその反乱を鎮圧していました。しかし、鹿児島で「西郷隆盛」を大将に担いだ旧薩摩藩士らによる反乱(「西南戦争」と呼ばれました)が勃発した時、抜刀して斬り込んで来る旧薩摩藩士の攻撃に対して、最新式武装とはいえ多くは町民や農民の出身者であった新政府軍の兵士たちは、銃剣での戦いに不慣れなため散り散りになって逃げました。

鉄砲の撃ち難い近距離まで突撃して斬り込んで来る旧薩摩藩士らに手を焼いた新政府は、ついに、警視庁の警察官として再就職していた元会津藩士や、元同藩家老「佐川官兵衛」らを説得して約300人を超える元会津藩士を集め、彼らを主力部隊にした「警視庁抜刀隊」を編成しました。その中には、旧幕府軍や新選組で生き残った者たちも加わっていました。「警視庁抜刀隊」は、警視庁警察官の制服を着用し、「愛刀」だけを携えての出征です。一切の銃器の携帯は禁止されました。「戊辰戦争」では「賊軍」にされた元会津藩士たちが、警視庁抜刀隊では「官軍」となり、激戦地に送られました。旧薩摩藩士が振るう剛剣で名高い「薩摩示現流」― 新選組の局長「近藤勇」は、隊士らに「薩摩示現流の初太刀だけは何としても避けろ!!」と言ったほど、抜刀の速さと繰り出される太刀のパワーは凄まじいものでした。元会津藩士らは「神道精武流」や「一刀流」を学んだ者が多く、まさに剣術による戦いだったようです。抜刀して突撃する警視庁抜刀隊…口々に「戊辰の仇」と叫び、剣に自分の命を預けての戦い。ある意味で無謀な戦い方があったようですが、各方面で旧薩摩藩士らの軍勢を打ち破る功績を打ち立てました。

警視庁抜刀隊

警視庁抜刀隊 (向かって右側手前に『藤田五郎』が見える)

この「警視庁抜刀隊」の中に、「藤田五郎」と改名していた「新選組の斉藤一」が加わっていました。近年の研究で、斉藤一(藤田五郎)の使っていた剣術の流派は「無外流」説が最有力になりまして、ということはこの時「無外流」が実戦で使われたことになります。藤田五郎は西南戦争において「勲七等旭日章」を受勲する戦功を立てております。

この「西南戦争」に於ける警視庁抜刀隊の功績から、大警視(現在の警視総監)の「川路利良」(薩摩出身で剛柔流免許)は剣術の重要性を再認識し、警視庁の警察官に対して行う武道訓練として「剣術」の導入を決めました。全国各地から各流派の名立たる剣豪を「撃剣師範」として招聘し、各流派の形や組太刀の中から選び出した技を、警察官としての職務執行と心身の鍛錬に必要であるという意味合いを含めて「警視庁撃剣形」として編み出したそうです。そしてそれをキッカケに、全国各地の警察も警察官の訓練として「剣術」を導入していきました。

無外流の第十二代宗家を継承していた「高橋赳太郎先生」は兵庫県警の臨時雇巡査に就職しており、その実力から大阪府警の四等巡査に転進して剣術の指導に当っていました。

現代に「剣術」「剣道」「居合道」が伝承されて、小学生の豆剣士から高齢のベテラン剣士までが全国各地の武道館や剣友会や各流派の道場、公共施設の体育館などで、心身の鍛錬や生き甲斐として稽古に汗を流す風景が見られるのは、「西南戦争」 ― 映画「ラスト・サムライ」のモデルにもなった日本で最後にして最大の内戦 ― で武士の魂である「刀」が、警視庁抜刀隊と旧薩摩藩士ら武士同士での死闘で振るわれ、多くの血を流した結果…「死を恐れずに戦った武士の精神」を、「何事にも負けない強い心と体を鍛錬する剣士の精神」として…現代に受け継ぐことができたからではないでしょうか。

先人たちが自分の名誉を懸けて戦ったこと、それによって、現代に生きる我々が「剣術」「居合道」「剣道」を学べることに対して、感謝と哀悼の念を忘れてはならないと思いました。

text by 赤べこ
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