高橋赳太郎 十二代宗家
幕末期から明治維新~昭和前期の歴史が好きな関係で、知人から送られた「無外流」の系譜図にて該当する時代を見たところ「高橋赳太郎・十二代宗家」の頃でした。いったいどのような時代背景を生き抜いた方だったのでしょうか?
高橋赳太郎 十二代宗家・・・其の一
高橋赳太郎先生は、姫路藩士・高橋哲夫(十一代宗家。「無外流」「津田一伝流」「自鏡流居合」の師範。姫路藩校「好古堂」にて剣術指南を勤めました)を父に生まれ、自宅の道場にて無外流の稽古を始め、後には早世した父の代わりに祖父の「高橋八助・十代宗家」から指南を受け、明治十一年(二十歳の頃)に「無外流秘伝」を授けられたと言われております。
その後、兵庫県の臨時雇巡査を手始めとして、大阪府警の四等巡査を勤めて剣術の指導に当たり、警視庁の剣術世話掛となり、「警視庁撃剣形」の制定に貢献した「上田馬之助」「逸見宗助」らと交流しました。
明治三十二年五月、「京都武徳殿」の新築落成を記念して開催された演武大会で、「小松宮殿下・大日本武徳会総裁」が御臨席された台覧試合が行われ、高橋赳太郎先生は「高野佐三郎(中西派一刀流)」と対戦して引き分けました。赳太郎先生はこの高野佐三郎と、後の天覧試合で対戦した「内藤高治」の両名とは数回の試合を行い、勝ち負けの痛み分けの間柄となりました。この両名は「大日本剣道形 (戦後の日本剣道形) 」の制定に寄与し、剣道界では「名剣士」と呼ばれました。
大正七年五月、高野佐三郎が開いた剣道の道場「修道学院」の落成記念の剣道大会に高橋赳太郎先生は招かれました。内藤高治、「中山博道 (神道無念流宗家) 」などの剣士等が同じく招かれ、サッカーのワールドカップの如く!! 東西一流の剣士による交歓試合が行われました。
高橋赳太郎先生が明治期の天覧試合に出場され、勝利を収めて「剣の名人」と呼ばれたことは史実です。先生は昭和十五年に逝去されました(合掌)。
高橋赳太郎 十二代宗家・・・其の二
一度、興味を持ち調べ始めると、湧き出す泉のように、面白い発見の連続です。
六歳で剣術の修行を始めた高橋赳太郎・十二代宗家、その師は父であり十一代宗家の高橋哲夫先生です。十一代宗家は若い頃に廻国修行に出て、久留米で「津田一伝流」を学び、江戸にて「心形刀流」を伊庭軍兵衛(心形刀流宗家)より学び、直心影流を男谷精一郎より学び見聞を広めました。この心形刀流「伊庭軍兵衛」の養子、心形刀流の継承者「伊庭八郎」は戊辰戦争の時、旧幕府軍に加わり函館まで戦い抜き、「五稜郭の戦い」にて重傷を負って自決したとの伝承が残っております。また、五稜郭の戦いで左腕を失った「伊庭八兵衛」は、七、八人もの敵兵を切り伏せて「隻腕の剣士」と呼ばれ、端整な顔立ちだったことから、現代でも根強い女性ファンが多くおります。
直心影流の「男谷精一郎」は、徳川幕府が開いた国防機関の「講武所」の頭取役を命じられ、剣術師範も兼任しておりました。かの「勝海舟」は男谷精一郎の従兄弟です。
そして、心形刀流の客員として招かれていた人物が、新選組の二番組組長を務めた「永倉新八」(神道無念流免許)でした。この心形刀流を学んだ新選組隊士は「島田魁」と言う方です。身長が約180センチ、体重が150キロもあった巨漢です。
高橋赳太郎・十二代宗家は幕末期の頃は少年時代でした。父の「高橋哲夫武成・十一代宗家」は廻国修行で歴史に残る名剣術家と交流を持ち、当時は無名で、剣術修行に明け暮れていた永倉新八や島田魁らに「心形刀流」の道場にて、会っていたかも知れません??
当時、各流派の剣術道場でも・・・井戸端で汲み上げた井戸水で、稽古で流した汗を拭ってスッキリしてから道場の片隅や食客部屋(道場の居候)にて、酒を酌み交わしての「反省会?」が催されていました。その時は無礼講にて、様々な話題にて盛り上がったそうです・・・現代と同じですね!?(笑)
高橋赳太郎 十二代宗家・・・其の三
高橋赳太郎・十二代宗家が、父の高橋哲夫・十一代宗家から受けた「無外流」などの修行は、厳しかったそうです。稽古で疲れ果てて倒れた時には、引きずって井戸端に運び、冷や水を浴びせて目を覚まさせて、気合いを入れてから、道場に連れ戻して稽古を再開していたそうです。剣術師範と言う「剣の道」で生計を立てさせようと思った、父高橋哲夫先生の考えが思い忍ばれます。
残念ながら「廃藩置県」を迎えてしまい、姫路藩の藩校は廃校となり、かの戊辰戦争では、剣に武士の生き様を懸けて戦った「会津藩士」や「新選組」ら旧幕府軍は、新政府軍の最新式の鉄砲に撃たれて、次々と倒され、「剣や槍」の時代は終わりを告げ・・・もはや剣術師範としての生計が立てられなくなりました。
道場は閑古鳥が鳴き、生活が困窮する中、高橋哲夫・十一代宗家は亡くなりました(合掌)。その後の赳太郎先生に、無外流などの師範を行ったのが、祖父「高橋八助成行・十代宗家」でした。この八助先生は、江戸で無外流の稽古を積み上げた経験があり、赳太郎先生は後の明治十一年頃に「無外流秘伝」を授けられたと言われております。
生計を立てるための「高橋赳太郎・十二代宗家」の選択が、「撃剣興行」に加わることでした。剣術の形を披露する興行を行い、集まった観客から「拝観料」を徴収すると言う見世物でした、武士として剣術家としてのプライドを捨てて、生計を立てる為のお金を稼ぐ・・・今までの価値観や経験に対して、自己否定するような辛い思いだったかも知れません。この「撃剣興行」の発案者の「斉藤弥九郎」(神道無念流・錬兵館道場主)は生活に困る剣術家の救済策として編み出した苦肉の策、庶民に対して、剣術の稽古で積み上げた技を披露して、武士としてのプライドを見せようと思ったかも知れません・・・。
多くの剣術家は警察官や軍人に転職して行きました。赳太郎先生もやがて兵庫県警の臨時雇の巡査に再就職しました。旧士族たちの再就職先の大半は「警察官」「軍人」「教師」でした。
当時の日本人を、西洋人から見て・・・独自の高い文化と道徳心があり、庶民の文盲率が低いことに対して驚き、全人口(約2,000万人)の一割が大小の剣を携帯して武装している戦士(武士)であることに脅威を感じていたそうです。
武士の礼儀正しさと高い教養、尊皇攘夷で西洋人を襲撃した武士に対して行われた「切腹」・・・多額の賠償金を請求した西洋列強の公使たちは、犯人として捕らわれた武士たちが次々と切腹して行く場面に立ち会い、驚愕して制止しましたが、「切腹は武士の名誉であり、制止すれば・・・その者の名誉を汚す」と、幕府役人から淡々と説明されました。公使たちは「請求した賠償金を減額するから、この”切腹”と言う処刑を止めて欲しい」とまで言い出したそうです。
武士たちの切腹・・・現在でも欧米人から「ハラキリ」と呼ばれています(合掌)。