辻月丹と宮本武蔵
辻月丹が、近江国甲賀郡馬杉村(現在の滋賀県甲賀市甲南町上馬杉)に生まれたのは慶安元年(1648)である。宮本武蔵が亡くなったのは、その三年前の正保二年だから二人に接点はない。しかし、二人の生涯をたどっていくと、驚くほど共通点があることに気がつくのだ。
有名な「五輪書・地の巻」の序文で、武蔵はつぎのように言っている。
「我、若年のむかしより兵法の道に心をかけ、十三歳にして初めて勝負をなす。」
「自ら兵法の道に合ふ事、我、五十歳の頃なり。」
武蔵の兵法者としてのキャリアは十三歳から始まり、五十歳頃には自らの兵法を究めたと言うのである。
一方、月丹は
「十三歳のとき、京都に出て山口流祖・山口卜真斎(ぼくしんさい)門に入った」
(直心影流十五世・山田次郎吉著「日本剣道史」)
と、こちらも十三歳からのスタートである。
さらに、元禄六年、四十五歳の時に悟りを開き、無外流に到達したという。兵法を究めたのは、武蔵より五歳早かったが、ほとんど同じである。
しかも、両者とも山籠りしたり、武者修行しながら諸国を廻ったり、その生涯が謎に包まれている点までそっくりなのだ。独身で、人生のほとんどを浪人として通した点も共通している。
そして、極めつけは二人の肖像画である。
なんとなく、雰囲気が似ていないだろうか?
どちらも、鋭い眼光で圧倒的な存在感、力みもなければ隙もない緊張感、今にも臭ってきそうな体臭...この二人には「お洒落」という概念がなかったのかも知れないし、自己演出なのかもしれない。いずれにせよ、当時ですらかなりの変人だったはずだが、それも常人を超えた存在と表現すべきなのだろう。
しかし、ここまで似ているのは偶然なのだろうか?
おそらく月丹は、武蔵を憧憬していたのだ。月丹は、後年自らを語るときには、憧れの武蔵の生涯に自らを重ねていたとしか思えないのだ。しかし、これを単なるパフォーマンスと侮ることはできまい。なぜなら、結果的に月丹が多くの大名や旗本たちを弟子に持つことになったのだから、パフォーマンスだったとしても大成功だったわけだ。江戸時代を通して、辻月丹ほど多くの弟子を持った武芸者はいないのだから。
宮本武蔵は、鹿島で新当流の塚原卜伝と戦ったという。
また、鹿島に生まれた山口卜真斎は、新当流を修めたのちに京都へ上り、富田(とだ)流の一派である阿波賀流など諸流十二流を究め、山口流を創始した。
たとえ流派は違っていようとも、卜伝や武蔵への憧憬は、おそらく山口卜真斎、辻月丹を通して、無外流にも伝わっていると考えるべきなのだろう。
頌寶塾では、鹿島での合宿が恒例行事である。
私は鹿島神宮に参拝するとき、この鹿島で生まれた兵法を、無外流居合兵道を通して受け継いでいくのだと、先人達に誓うのである。